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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 大宝神社(栗東市綣)は、大宝年間(701〜704)に鎮座したと伝えられる古社で、江戸時代までは大宝天王宮・今宮応天大神宮などと呼ばれていました。疫病を鎮める牛頭天王として信仰を集め、その氏子(注1)圏は現在の栗東市域を中心に50余りの村々にまたがる広大なものでした。
 毎年5月4日に行われる例大祭では、拝殿に3基の神輿が据えられ、本殿では祝詞奏上、神楽舞の奉納、玉串奉奠といった神事が行われます。神事が済むと、氏子たちは神輿を担いで拝殿の周囲を回り、その後御旅所へと向かいます。御旅所では宮司らによる神事が行われ、神輿は再び大宝神社へと帰っていきます。これらの祭礼行事は、村生人講・長老講・天王講という3つの講(注2)を中心として行われています。
 大宝神社に残される文書から、500年余り前の明応7年(1498)には卯月祭礼という祭礼が行われていたことが知られています。もともと、旧暦の卯月(4月)の初子の日に行われていた例祭が、新暦にあわせて変更・ 固定されたのが、現在毎年5月4日に行われている例大祭です。ただし、500年間にわたって、一貫して同じように祭礼が行われてきたわけではありません。祭礼を担う講に注目すると、少なくとも江戸時代末期から明治時代初期の間に一つの転換期があったようです。
 江戸時代後半の文化14年(1817)、祭礼の費用を賄うために大宝天王宮を実質的に取り仕切っていた神応院が講元となって、大宝天王相続講がつくられました。大宝天王相続講に関連する資料は、幕末の文久3年(1863)まで確認することができ、主に会計に関する記録が残されています。
 その後、大宝神社の例祭は明治時代の初めに一時期中断した時期があったようです。明治11年(1878)、例祭を再び執り行うために滋賀県に宛てて出された申請書では、神輿に供奉する行列を古式に倣って出す、村生人講・長老講・十八日講の3つの講が登場し、宮司や戸長とともに各講の代表者の署名が見られます。このような役割は、今日の村生人講・長老講・天王講が担っているのと同様のもので、現代との連続性が考えられます。明治時代以降のこれらの講に関する記録は、当番の名前や行列の役割分担に関する内容が主となり、例祭の会計に関わる内容は見られなくなります。江戸時代の大宝天王相続講と、明治以降の村生人講・長老講・天王講との間には、明らかな性格の違いを見ることができるでしょう。
 姿を変えながら今日まで伝えられてきた例大祭は、近年では前日に行われる宵宮での子ども綱引き大会や和太鼓の演奏、例大祭当日の子ども神輿や女性が担ぐさつき神輿が加わって、より一層の盛り上がりを見せています。

※栗東歴史民俗博物館では、4月29日(祝)から7月19日(祝)まで、『大宝神社文書』を中心に、大宝神社に伝わる文化財を展示します。

注1【氏子】…同じ地域に住む人々が共同で祭る神のことを氏神といい、その神を信仰する人々のこと。また、氏子が住む範囲のことを氏子圏という。
注2【講】…中世以降、民衆のあいだで組織された仏事や神事を行うための結社。のちには、金融・相互扶助・共同労働・同業組合などさまざまな機能を持つ講が組織され、栗東市域にも約170の講があった。
問合せ
栗東歴史民俗博物館 TEL.554-2733 FAX.554-2755
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