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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 米作りを始める弥生時代の初め、栗東では比較的琵琶湖寄りの霊仙寺遺跡でムラ(集落)ができます。
 それから約800年、米作りのムラは栗東の北西半部に広がります。弥生時代の終わりには、下鈎遺跡や守山市との境に所在する伊勢遺跡で、大型建物を中心とした大きなムラが出来ていたことがわかっています。
 古墳時代になると土木技術が向上し、栗東では北東部、野洲川寄りの微高地上に集落が営まれるようになります。とくに高野・岩畑遺跡では古墳時代前期の竪穴住居によるムラが確認され、古墳時代を代表する遺跡として知られています。
 ところで、霊仙寺遺跡では、平成20年(2008)の調査で古墳時代の小規模な掘立柱建物・井戸・溝などが発見されました。
 掘立柱建物は2間×1間のものなど5棟が確認されています。完全に残っているもので床面積が8u、4uとかなり小規模な建物です。このうち柱穴の一つには農具などを転用した礎板(注1)が残っていました。建物群は浅い溝に囲まれ、溝には当時煮炊きなどに使用されていた土器が、炭化した木片などとともにまとまって廃棄されていました。
 また、建物の横には井戸もあります。井戸は深さ約1.1mで、素掘りです。中からは小型の壷や器台、木錘(注2)などのほか、種が入ったままの状態のヒョウタンなどが出土しました。 この調査では、集落の主流が野洲川左岸に移り、竪穴住居による集落が展開する古墳時代前期に、栗東市北西部の霊仙寺で、掘立柱建物による小さなムラがあったことがわかりました。
 弥生時代末から古墳時代前半には、今回の調査区の北1qに位置する守山市下長遺跡で首長居館や祭殿とみられる大型建物などが発見されています。大型建物の周辺には今回の霊仙寺遺跡で検出された建物と同様の小規模な掘立柱建物が伴っている例があります。今回霊仙寺遺跡で発見された建物の性格も、隣接する守山市域の遺跡との関連が考えられます。
 霊仙寺で発見された小規模なムラの姿は、地域の集落の展開を知る貴重な資料であり、またこの時期の人々の生活を知る手がかりとなりました。

注1【礎板(そばん)】…柱が沈まないようにする板
注2【木錘(もくすい)】…ムシロなどを編むときに使うおもり
問合せ
出土文化財センター TEL.553-3359 FAX.553-3514
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