トップページ(目次)へ
りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 室町時代のほんの一時期、私たちの住んでいる栗東市が、日本の政治の中心となりました。
 それは室町幕府の9代将軍である足利義尚(父は慈照寺・銀閣を建立した8代将軍の足利義政)が1487年から1489年に至る1年5カ月にわたって設置した「鈎の陣」を指します。
 足利義尚は近江南部を支配した守護大名の六角氏を討伐するため、京都から大軍を率い、今の上鈎や下鈎を中心に「陣」を構えました。「鈎の陣」の鈎とはこの地名を採っています。
 さて「陣」とは、一般的には合戦の時に、軍勢が駐屯する場所のことですが、「鈎の陣」は将軍の居所である御所を中心にいくつもの「陣」によって構成されていました。義尚の死去によって「鈎の陣」は解体しましたが、将軍が住んでいた御所の跡は上鈎の永正寺付近が有力とされており、土塁や堀が残っています。将軍の御所では、政治・裁判・宴会が行われていました。このことは「鈎の陣」が一時的なものではなく、幕府の運営を前提とする長期におよぶ施設であったことを示しています。
 ところで「陣」は合戦が前提となるので、通常、長くてもせいぜい数カ月しか置かれることはありません。それではなぜ、足利義尚は長期にわたり「陣」を構えることになったのでしょうか。
 京都で将軍をしのぐ勢いをつけてきた細川氏(管領(注))の影響を脱して、新しい政権を作ろうとしたことも背景にあるようですが、直接には六角氏との戦いが長期化していたことがあります。
 長期間の合戦で有名なのは勝敗がつかなかった応仁の乱(1467〜78年)がありますが、「鈎の陣」も義尚の死去がなければさらに長期に及んだ可能性がありました。
 合戦の長期化を許した原因を、「鈎の陣」の構成からみていきましょう。義尚に従った多くの家臣(奉公衆)や大名たちは、御所の周辺に「陣」を構える者がいる一方、草津市上笠の正覚寺(現在は消滅)や、栗東市内の六地蔵宿・蓮台寺(下鈎)など、直線距離で約7qの範囲に「陣」を構えていました。これらの「陣」は分散している上に、家臣や大名は将軍に対して半独立的な立場にありました。このため、敵が攻めて来た時に連携した作戦ができない状況にありました。
 さらに陣所の多くは、すでにその土地にあった寺院や宿、豪族の館を利用した一種の間借りで、砦などの軍事施設は築かれませんでした。
 その上、各「陣」は東海道・東山道(中仙道)街道や、志那街道といった琵琶湖岸に開かれた港と内陸部を結ぶ街道・都市に沿って分布しており、人々を巻き込んだ合戦がやりにくいという問題を抱えていました。これは室町時代の「陣」に共通した特徴であり、合戦が遅々として進まない環境にあったといえます。
 ところが織田・豊臣時代になると状況は一変します。1583年に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の間で戦われた「賤ヶ岳の合戦」では、南北8qの間に、両軍合わせて約20 の砦が、街道を見下ろす山の上に築かれました。砦には武将たちが「陣」を置いていましたが、間借りではなく独自に軍事施設(砦)を築き、都市につながるライフライン(街道)を支配しました。このことは、権力者が合戦において、物資を集中して投入し、短期の「決戦」で勝敗を決することができる時代に変化したことを示しています。

注【管領】…幕府の主要な役職
問合せ
出土文化財センター TEL.553-3359 FAX.553-3514
トップページ(目次)へ