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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 手原遺跡は、飛鳥時代から平安時代前半にかけての古代寺院や役所が存在していた遺跡として知られていますが、古墳時代以前の手原遺跡として紹介させていただいたときに、縄文時代の石器が比較的多く出土していることや下層面に焼けた面や炭化物が確認されている点などの状況から縄文集落の存在は推定できますが、弥生時代の遺構が確認される可能性は低いことを報告させていただいたことがありました。
 しかしその後の調査で、土坑の中から弥生時代中期の終わりころ(紀元前50年前後)の土器が出土しました。弥生時代から古墳時代へ移行する時期の土器なら、弥生集落から移動してくるときに新たな集落に持参したことが考えられますが、これより約200年以上も古い時期の土器が確認されたことは、どのような状況で手原遺跡にもたされたのか考えていく必要性があります。
 さて土器の特徴ですが、形は口縁が広がるつぼで、文様が外面と内面の両方に、くし状の工具で施されています。外面の文様は、口縁部と頸部に刺突文、肩から胴部にかけて直線文、刺突文、波状文の順で配列しています。内面の文様は、口縁部付近に刺突文が山形文を挟む形で構成されています。
 山形文は、野洲川流域を中心に見られる文様で弥生中期後半に流行した文様です。栗東市におけるこの時期の遺跡としては、下鈎遺跡、中沢遺跡、坊袋遺跡など葉山川流域の治田地区を中心に存在しますが、これらのムラで発見される土器にも山形文が時々見られます。
 文様の成立については、三重県の伊勢地域や伊賀地域のほか、遠くは愛知県の三河地域において、中期中葉の段階から、つぼの文様として流行することから、起源は東海地域にあったことが想定されます。このことを裏付けるように、滋賀県でも三重県に近い、日野町の森西城遺跡で比較的古手の山形文が確認されています。

※この遺物は「埋蔵文化財発掘調査成果展」にて12月5日(日)まで栗東歴史民俗博物館で展示します
問合せ
出土文化財センター TEL.553-3359 FAX.553-3514
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