トップページ(目次)へ
りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 栗東にお住まいの皆さんには、下鈎や上鈎という地名はおなじみでしょう。でも、この「鈎」という文字は、なかなか読みづらいと思われます。この「鈎」の地名については、鎌倉時代の建長5年(1253)10 月に公家の近衛家の領地を記した文書のなかに「近江国鈎御園」がみえます。「御園」というのは、果実や野菜類を納める領地です。これは、北小路尼という女性が近衛家に譲り渡したもののようですが、これが「鈎」という地名が文献史料に記された早い例です。下鈎や上鈎は、この鈎という地域が上・下に分かれたものと考えられています。
 ところで、平成11年(1999)の栗東市十里遺跡の発掘調査では、7世紀にさかのぼる河川の跡が発見され、そこから木簡が出土しました。この木簡は、十里遺跡にあった近江国もしくは栗太郡の役所の関連施設で廃棄されたと考えられています。捨てる際に折られているので、読み難い文字もあるのですが、これは乙酉年(天武天皇14年、685)4月1日に近江国司がある人物を呼び出して、宮の大夫という地位にある勾連渚と相談して、その人物に何らかの物品を与えるという内容の文書で、物品を受け取ったという文言も記されています。
 ここで注目されるのは、「勾連渚」という人物の名前です。「勾」は「まがり」と読むことから、十里遺跡から東に3q余り離れている下鈎・上鈎の地名が思い起こされます。おそらく、鈎(勾)の地名は、「勾」という氏名と深くかかわるものなのでしょう。
 古代には、「勾」という文字を付した人物名がいくつかあります。『古事記』には、開化天皇の子である日子坐王の子、小俣王が当麻(奈良県葛城市)の勾君の祖であるとされており、また、安閑天皇は、大倭国の勾の金橋(奈良県橿原市)に宮を置いていますが、即位前は勾大兄皇子と呼ばれていました。この安閑天皇の時代には、勾舎人部や勾靫部を置いたとありますが、勾という氏名は、これらに由来するものでしょう。十里遺跡の木簡と同じころ、天武天皇12年(683)9月には、勾筥作部ほかの氏に連の姓が与えられています。奈良時代の正倉院文書のなかには、木工として勾猪万呂という人物もみえています。
 『近江栗太郡志』は、「鈎」の地名が、先にみた小俣王の子孫である当麻の勾君が居住したことによるものとしています。また、「まがり」という地名は、「曲」の意味で、川の蛇行などの自然地形に由来するという見解もありますが、栗東の「鈎」の地名は、十里遺跡の木簡とのかかわりからすれば、勾連という氏とのつながりを考えるべきで、7世紀後半にまでさかのぼると推測されるのです。

※栗東歴史民俗博物館では、平成23年3月5日から小地域展「下鈎の歴史と文化」を開催します。

問合せ
栗東歴史民俗博物館 TEL.554-2733 FAX.554-2755
トップページ(目次)へ