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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 出庭神社には、「三ツ石」と呼ばれる信仰の石が残されています。
 三ツ石は、鳥居をくぐって参道の左に立てられた高さ108p ほどの角柱と、参道右の手洗い鉢背後に斜めに立てられた一辺が60pある六角形の板石。さらに神社とは道を挟んだ東側に長辺90p、短辺40p の自然石が舗装道路の中に不自然な状態で置かれています。そしてこの三個の石には共通して大小の円い穴が開けられているのです。
 さて、その円い穴は何を意味するのでしょうか。この穴は「盃状穴」と呼ばれるもので、安産祈願など何かの信仰により人為的に開けられたものと考えられています。道路にある盃状穴石の表面には直径 11p 、深さ6p を最大に大小いくつもの穴が所狭しと開けられています。写真に見るようにどれもきれいな円形であり、何か硬いものでこつこつと根気よく開けられたことが分かります。
 ちなみにこの盃状穴石、昔、村人が掘り起こそうとしたところ、いくら掘っても根が深くて断念したという話が伝わっています。以前は公園と道路の間にあったのですが、道路を広げた後もそのままの位置にあるのは、信仰の石であるが故、動かすことができないからでしょうか。
 ところでこの盃状穴、全国各地の神社や寺などにある自然石や手洗い鉢、石塔、踏み石などに開けられているのが見つかっていて、いくつかの研究も発表されていますが、それが何なのかは分かっていません。栗東市内では今のところ18カ所、25例が確認されています。ではこの盃状穴、いつ誰が何の目的で開けたのでしょうか。
 同じく出庭にある従縁寺の雨水溜は、石塔の基礎から転用されたものです。13世紀末ごろ(鎌倉時代)の物ですが、盃状穴が開けられたのは、鎌倉時代からだいぶ時間がたち、雨水溜に転用されてからです。また、下鈎の泊瀬部神社にある手洗い鉢は、安政3年(1856)に制作された物ですから盃状穴は幕末以降に開けられたことが分かります。
 一方、出庭神社の三ツ石については、江戸時代の文政4年(1821)に膳所藩へ献上された『栗太志』に「正殿のそばにあり、昔から囲いをして之を崇めること神のごとし、村人にわけを尋ねても知るものなし」と紹介されています。江戸後期には、すでに信仰の理由は忘れ去られているのです。
 盃状穴が開けられているから信仰の石になったのか、信仰の石だからこそ盃状穴が開けられたのか、それもまた謎のままなのです。
問合せ
出土文化財センター TEL.553-3359 FAX.553-3514
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