今から210年前の享和3年(1803)に刊行された『東海道人物志』には、「笠山」と号した「岡野五左衛門」という画家が紹介されています。彼の詳しい経歴は明らかになっていませんが、その名前は安政4年(1857)の『現故漢画名家集鑑』、大正15年(1926)の『近江栗太郡志』などでも取り上げられています。
笠山は岡村の元伊勢屋に生まれました。元伊勢屋とは、目川立場(現在の栗東市岡)に置かれた田楽茶屋の1つで、当主は代々、五左衛門を名乗っていました。庄屋代、年寄、肝煎など、岡村の村役人を務める家柄であったことが分かっています。幼いころから絵を好み、暇さえあれば人物や花鳥を描いていた笠山は、京都に出て与謝蕪村(1716〜1783)に師事したといいます。特に人物画を得意とし、その絵は徳川将軍に上覧されたとも伝えられています。史実かどうかの確認はできませんが、笠山が蕪村の画風を学んだ画家であるということ、その名前が遠方にも知られていたことは間違いないようです。
ところで、岡村の史料を見ていると、「五左衛門」の名前を明和8年(1771)から文久4年(1864)にかけて確認することができます。90年あまりにわたって代々の五左衛門が登場するため、どの五左衛門が笠山であるかを判断するのは簡単ではありません。弘化2年(1845)の史料には59歳の五左衛門が登場しますが、享和3年(1803)には17歳の若さであった彼が、『東海道人物志』に取り上げられるほどの画業を積んでいたとは思えません。その父親にあたる五左衛門が、有力候補でしょう。
晩年の笠山は、地山古墳(栗東市岡地先)に庵を結び、焼物をしていたと伝えられています。地山古墳の調査では、壊れた窯の壁や窯道具、茶わん、皿などが発見されています。こうした遺物が伝承と直ちに結びつくかどうかは慎重に検討する必要がありますが、笠山を考える上で興味深い発見といえるでしょう。
※栗東歴史民俗博物館では、4月27日(土)〜6月2日(日)まで、特集展示「岡笠山〜蕪村風絵画の継承〜」を開催します。 |