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特集
リオの舞台へ
パラリンピック・競泳(視覚障害)男子代表
木村 敬一選手
25歳・綣出身・東京ガス
 パラリンピックは3度目の出場。前回のロンドン大会では、日本代表選手団の旗手を務め、男子100m平泳ぎで銀メダル、男子100mバタフライで銅メダルを獲得。
※リオでの競技出場は、9月12日〜16日
栗東を盛り上げられるよう、金メダルを獲得を目指す。
新しい発見のため、障がい者と友人になってほしい。
母の勧めで始めた水泳で世界を舞台に活躍
 平成4年、2歳の時に先天性疾患「増殖性硝子体網膜症」により視力を失った木村さん。幼少時は補助輪なしで自転車にも乗るような元気いっぱいの子どもでした。
 4歳からは、点字で学習するため、彦根にある滋賀県立盲学校幼稚部に通学。小学部からは寄宿舎で家を離れての生活が始まりました。10歳の頃、校内マラソン大会を見学した母・正美さんが「思いっきり運動をさせてあげたい」と木村さんに水泳を勧めます。週に1度スイミングクラブに通い始めたのが、水泳競技に関わるきっかけになりました。
 「全国から集まる生徒の多様な価値観の中で、さまざまな経験を積んでほしい」という両親の思いを受け、単身上京した筑波大学付属盲学校では、水泳部に所属。努力により、この頃から国際舞台での活躍が始まりました。
目が見えない状況から逃げない自分をアピールするものが水泳
 高校1年生の頃、広報りっとうの取材で木村さんは次のように語っています。「練習は厳しいですが、やればやるだけ結果が出ます。高校は、全国から個性豊かな友達が集まっています。だから、『これができる』という自分をアピールするものが必要。それがぼくの場合は水泳です。視力はあったほうがいいに決まってますが、この状況から逃げたくありません。目が見えないことで、生きていけないことはないし、今のところ不自由もしていません。
 同じ学校出身で、尊敬する先輩にアテネパラリンピックなどで金メダルを獲得した河合純一さんがいます。今後、同じ全盲の水泳選手が出てきたとき、目標として、『河合か木村か』と言われるような選手になりたいです」。
4年間の成果をぶつけ金メダル獲得を目指す
 平成20年、高校3年時に出場した北京パラリンピックでは、100m平泳ぎと、100m自由形で5位、100mバタフライで6位に入賞。平成22年、日本大学2年時の中国広州アジアパラ競技大会では、尊敬する河合選手を50m自由形で破り、金メダルを獲得しました。
 平成24年、日本大学4年時に出場したロンドンパラリンピックでは、100m平泳ぎで銀メダル、100mバタフライで銅メダルと念願のメダルを獲得。平成26年の仁川アジアパラリンピックでは4冠の快挙を達成し、世界が認める水泳選手になりました。現在の状況から金メダルの期待が高まるリオに向けて、木村さんは次のように力強く語ります。
 「長年の夢であった『パラリンピックのメダル』を獲得したロンドン大会から、全体的にパワーと泳ぎのベースを向上させ、何段階も強い身体を作ることに重点を置いてきました。今は1回2時間前後のトレーニングを、週に10回行っています。水中のトレーニングの他にも、ウェイトトレーニングも行っています。優勝を狙える平泳ぎとバタフライを得意としており、リオではこの4年間の成果をぶつけ、金メダルを獲得してきます。
 また、私にとって栗東は、自分を競技から切り離してリラックスできるとてもあたたかい場所です。まち自体もとても落ち着いていて、過ごしやすい所だと思います。そんな栗東の皆さんから、たくさんの応援をいただけて大変幸せに思っており、感謝しています。栗東市を盛り上げられるよう、精一杯頑張ってきます」。
友人として障がい者と接することが世界観を変える
 日本大学大学院で教育学を専攻し、障害のある子どもを含むすべての子どもに対して、一人一人のニーズにあった適切な教育的支援を通常の学級で行う教育「インクルーシブ教育」にも関わってきた木村さん。今後の抱負やすべての人が住みやすい栗東のまちにしていくために必要なことについて、メッセージをくださいました。
 「リオの後、具体的なものはまだ固まっていませんが、自分の経験を生かし、障害のある子どもたちが、さらにスポーツに親しみ、取り組む環境を整備していければと思っています。
 学校や職場で障害のある人と関わることが、徐々に増えてきていると思います。そのような時に、その人に興味をもち、仲良くなってほしいと思います。
 障がい者は多かれ少なかれ、普通とは違う感覚や、背景をもっていると思います。話を聞くことはとてもおもしろいですし、友人として障がい者と接することは、間違いなく皆さんの世界観を変えてくれると思います。私自身も、他の障害をもつ人たちと話をしたり遊んだりする中で、数え切れないほどの発見があります。サポートするだけでなく、ぜひ友人になってみてください」。
 常に目標に向かい努力し続けてきた木村さん。金メダル獲得に向け、熱い闘志を胸に、全力でリオの舞台に上がります。
<木村選手に贈る一字>
見守り続ける父・稔さん(右)と母・正美さん めったに弱音をはかない敬一ですが、今回は、精神的にも肉体的にも大変なようで「一度、練習を休んだら」と言ったのですが「絶対休めない」と言われました。
 決して大きくはない体で筋力トレーニングや練習を積んできた息子。自分らしい泳ぎで、大きな「夢」に向かって進んでほしいです。
パラリンピック・視覚障害者マラソン女子代表
近藤 寛子選手
49歳・小野在住・滋賀銀行
 今回の大会から正式種目となった「視覚障害者マラソン女子」で初のパラリンピック出場。自己ベストタイムは3時間18分5秒。支える人々とともに、「チーム近藤」でリオの舞台に臨む。
※リオでの競技出場は、9月18日
辛い時に救ってくれたマラソンは、自分そのもの。
リオで最高の走りがしたい。
網膜色素変性症を発症 元気になるためのマラソン
 平成13年、34歳の時に遺伝性の「網膜色素変性症」を発症した近藤さん。「治る見込みはなく、いずれ失明する」と言われ、大きな不安の中で、家に引きこもりがちになっていた時、救いになったのが、マラソンとの出会いでした。
 「病気を知った時は、どん底に突き落とされたようでした。生まれたばかりの長女をはじめ3人の小さな子どもがいるのに、目の見えない私が育てていくことができるのか、ショックや不安が大きかったです。今思うと偏見ですが、自分自身が障がい者になることに抵抗がありました。
 障害者手帳を取得した際、付属冊子の障がい者スポーツ欄で偶然、陸上競技を知りました。『走るくらいならできるかな。外に出て元気になりたい』と問い合わせた先で、全盲の女性ランナーを紹介してもらいました。『私は目の見えない母となってしまい、3人の子どもたちがかわいそう』と女性ランナーに電話で泣きつくと『私も育ててきたから大丈夫。子どもなんて勝手に育つよ』と励まされました。
 初めて練習会に参加した時は、500mも走れませんでした。それでも、そこにいた皆さんが明るく元気で、『私もこういう風に元気になりたい』と思い、走ることを始めました。フルマラソンなんて考えておらず、『今日はあの電柱まで、明日はあの電柱まで』とコツコツと頑張っていきました」と語る、近藤さん。
 走る距離は長くなり、平成18年、初のフルマラソンに挑戦し、4時間半のタイムで完走。以後もタイムを更新し、平成25年、リオに向けた強化選手に指定されました。
夫・秀彦さんの死 リオへの約束を胸に
 平成26年、走るたびに元気になっていった近藤さんを大きな不幸が襲います。練習の送迎をはじめ、精神的にも近藤さんを支えていた夫・秀彦さんの急死。
 「私たち夫婦は、走ることが接点で、常に夫は私を応援してくれていました。その日も私は県内のスポーツ大会に出場していて、最期に立ち会うことができなかったんです。自分には走る資格なんてないと思い、子どもたちの前で『もう、走ることをやめる』と大泣きしました。そしたら『何を言ってるん。お父さんは、リオに連れて行ってって言ってたやん』と息子たちに怒られたんです」と近藤さん。しばらくして、「夫のためにも、走るしかない」と約束を胸に、再び走ることに向き合い、練習を始めました。
 「リオに行くため、競技環境を充実させたい」と近藤さんは、昨年、びわこ・くさつキャンパスで練習する立命館大学陸上部の門を叩きます。そこで、出会ったのが、世界選手権代表経験もある高尾憲司コーチと全国女子駅伝の出場経験がある、伴走者の日野未奈子さん。週に2回、仕事後に厳しい指導のもと練習を重ね、今年2月の別府大分毎日マラソンでは、3時間18分5秒の自己ベストタイムでゴール。この記録により、リオへの代表切符をつかみました。
伴走者の大きな存在 リオで最高の走りを目指して
 「別府大分毎日マラソンは夫が追い風になってくれた気がします。また、私の目となってくれる伴走者はとても大きな存在です。競技を始めたころに出会い、今も月1回、単身赴任先の東京から戻って練習を支えてくれる、川嶋久一さんと、立命館大学の日野さん。2人はまるで私の一部のようで、心地よいマラソンができます。苦しくなった時は、声をかけてくれ、元気をもらえます。ゴールの達成感は何にも代えがたく、2人をはじめ、みんなの思いを受けて、頑張れるんです」と笑顔が弾けます。
 週に2回は市内をリフレッシュしながら走る近藤さん。次男の崇弘さんとは、親子の会話、マラソン仲間とは、子育て相談などもしながらランニングしています。
 「今、右目は太めのストローをのぞく程度の視野しかなく、左目はほとんど見えませんが、走ることを楽しんでいます。病気が分かり、生きることが辛かった時、夫が亡くなった時、いつもマラソンが私を救ってくれました。マラソンは自分そのものです。リオでは最高の走りができるように頑張ります」。多くの支えや夫への思いを胸に、近藤さんはリオのまちを駆けます。
<木村選手に贈る一字>
リオでの後半伴走者 川嶋久一 さん 近藤さんと私は1本のロープで繋がっています。手と手が、心と心が繋がっています。選手は命を預け、伴走者は命を預かります。堅い信頼関係で結ばれています。
 切磋琢磨して苦しい練習を乗り越えることで、私たちに、ともに達成感や充実感が生まれ、かけがえのない「絆」ができています。深い「絆」で、ともにリオを走ります。
リオでの前半伴走者 立命館大学 女子陸上部・日野未奈子さん 「障がい者スポーツ指導員」の資格も持っており、近藤さんの声・顔色のチェックや練習後の「伴走ノート」への記録で、よりよい走りができるように取り組んできました。
 近藤さんの後ろにある、家族をはじめ、多くの人の思い。近藤さんと絆のロープを「繋」ぎながら、それらの思いを大きく「繋」げることができるよう、頑張りたいです。
リオをともに目指してきた立命館大学陸上部コーチ・高尾憲司さん 視覚を失い、リオに挑戦し続けた、決して楽ではない「道」。今、近藤さんはどんな「道」が見えているのでしょうか。近藤さんの努力で進んで来た「道」に、私も新たな「道」が開けたことに感謝しています。
 近藤さんとともに、リオから視覚障がい者マラソンの「道」に新たに挑戦していきたいと思っています。
家族として支える次男・崇弘さん 母はとても努力家。私が小学6年生の時に行われた大阪ハーフマラソンが母にとって初めてのレースでした。ゴールした瞬間、ふらふらになりながら倒れ込んだ母。そんな頑張った姿を見て、「ぼくも中学校で陸上をやる」とその場で宣言し、今もともに練習しています。
 母がリオのまちを「駆」け抜けられるように、応援しています。
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