栗東市下戸山を流れる金勝川と名神高速道路が交わる脇に「灰塚山」があります。
この山には伝説があり、大きな栗の木を燃やした灰が積もり、山となったと言われています。この栗の木の伝説から旧近江栗太郡(現栗東市、草津市および大津市と守山市の一部)の名の由来にもなっており、過去の書物を調べてみると、いろいろと面白い話が出てきます。
まず、木の大きさが途方もなく大きく、平安時代末期の「今昔物語集」では、近江栗太郡に柞(注)の巨木があり、その幹の太さは五百人が両手を伸ばして輪になると、やっと抱えられるほどで、木の陰も大きく、朝日は丹波の国に影を差し、夕方には伊勢の国に影が差すほどと書かれています。
また、その大きな影の影響から志賀・栗太・甲賀三群の百姓は田畑が作れず、天皇に申し出たところ、天皇の遣いによって木は切り倒され、田畑を作ることができたと書かれています。
「今昔物語集」では灰塚山のことまで書かれていませんが、この伝説が記載されている書物は複数あり、少しずつ物語にも違いがあります。
室町時代の「三国伝記」では柞の木から栗の木に変わっており、切り倒す際に切り込みを入れても、巨木が樹の王であるため、草木が夜のうちに傷口を治してしまい、なかなか切れず、最後には燃やしたとあります。
江戸時代後期の「東海道名所図会」でも目川と梅木(今の六地蔵あたり)の間に、同様の栗の大木があったと書かれており、耕作の妨げとなるので、焼き払ったことで灰塚ができたと書いています。
この物語はあくまで伝説ですが、この地域を開拓した時代を伝えているものともされており、地名から歴史を感じることができる場所となっています。
(注)柞はコナラの古名と言われる |