平成13(2001)年10月に本市が誕生して、今年で20周年を迎えます。栗東という名前は「栗太郡の東」に由来していますが、これは、昭和29(1954)年に当時の栗太郡の東側にあった治田・金勝・葉山・大宝の4つの村が合併して、栗東町が誕生したことによるものです。栗東町は、周辺の市町と合併することなく、単独で市制施行しています。
ところで、治田・金勝・葉山・大宝の各村は、明治22(1889)年にできた村で、それまでは現在の"大字"が1つの村をつくっていました。明治時代の初めのころまでの栗東には多くの村があったのですが、ここでは江戸時代の安養寺村を描いた「安養寺村絵図」を紹介します。
安養寺という地名は、天平12(749)年に開かれたという言い伝えをもつ古刹・東方山安養寺に由来します。長享元(1487)年、室町幕府の将軍・足利義尚の近江への出陣(鈎の陣)に際して、将軍の陣所となったことでも知られる東方山安養寺は、戦乱によって荒廃し、多くの建物を失いました。その後、東方山安養寺は貞享2(1685)年に復興されました。安養寺村絵図には、東方山安養寺の門やお堂も描かれており、この絵図がその復興よりも後に描かれたことを物語っています。
また、安養寺は、多くの古墳が営まれた地域として知られています。安養寺古墳群と総称されるこの古墳群では、馬具や船形埴輪など、全国的にみても貴重な遺物が出土しており、栗東はもちろん、滋賀県を代表する古墳群と言えるでしょう。安養寺古墳群の古墳で、現在でもそのすがたをはっきりと留めているのは、市役所立体駐車場の南側に位置する椿山古墳のみとなっていますが、安養寺村絵図にはいくつかの古墳が描かれており、かつてのすがたをしのぶことができます。
江戸時代という遠い昔に描かれた古絵図から、歴史のつながりを感じることができるのです。
※安養寺村絵図は、栗東歴史民俗博物館で開催中の特集展示「村の世界 〜古絵図に見る 昔の栗東〜」(2月28日(日)まで)で展示しています。また、通史展示「栗東の歴史と民俗」では、安養寺古墳群で出土した埴輪を展示しています。この機会に、ぜひご覧ください。 |