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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 今回紹介する調査地は、市域の中では琵琶湖に近い沖積平野に位置し、標高は約92〜93mです。霊仙寺遺跡の北端部、北中小路遺跡の南部にまたがっていて工業団地建設工事に先立ち発掘調査を実施しています。
 調査では縄文時代から鎌倉時代までのさまざまな遺構遺物が出土しました。
 縄文時代では2個体の土器が埋納された土坑1基と、火を焚いた炉の跡1基を確認しました。炉からは複数の土器片が出土。ボロボロになっていて詳しい年代は分かりませんが約4000年前と考えられます。炉の周辺からはサヌカイト製とチャート製の石鏃(写真2)各1点と石錘(網漁の重り)1点が出土。また、石器の材料であるサヌカイト石核3点や、石器を成形する際にでる剥離破片が約103点出土したことから、ここで石器を製作していたことが判明しました。炉を中心に柱穴(写真1)が4か所あるので屋根状の覆いがあったことが分かりますが、竪穴住居である確証は得られませんでした。
 弥生時代では掘立柱建物、井戸、土坑、方形周溝墓、河川を確認しました。掘立柱建物は小規模なものが3棟あり、うち1棟は長辺が4本柱で5m、短辺は2本柱で3m、床面積15uの大きさです。井戸は3基確認、いずれも井戸が使用されなくなった後に弥生時代後期(2世紀)の土器が捨てられていましたが、1基の井戸底部からは中期(紀元前1世紀)の細頸壺(写真3)が出土したので、中期に掘られ使用された井戸(写真4)であることが判明しました。井戸の規模は、直径約1m、深さ約2mです。粘土層を掘り進み、水が湧き出る砂礫層まで掘り抜いて、飲料水を確保しています。
 方形周溝墓は1基検出、棺などの埋葬部分は後世の開墾などで削られて周溝のみが残存していました。規模は一辺9.3m、溝幅1.5m、深さ15cm。河川は幅5〜7m、深さ1.4m〜1.6m、東から西へ流れていたと考えられ、底部には堰状の構造物が認められました。

 その他、古墳時代や飛鳥時代、平安時代、鎌倉時代の掘立柱建物や溝など、さまざまな遺構と土器などの遺物を確認しました。
 今後も継続して調査を実施することで、この地域の歴史的様相がさらに明らかになっていくことが期待されます。
問合せ
出土文化財センター TEL.553-3359 FAX.553-3514
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