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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 栗東市の平野部は鈴鹿山脈に源流を持つ野洲川が運んだ土砂によって作られた、水はけのよい扇状地です。扇状地の端は、地下を通った水が湧き出し、水源として利用しやすい立地となっています。人が住むためには綺麗な水が不可欠ですから、このような地形には集落が形成されやすくなります。
 今回紹介する綣遺跡は、その扇状地の端部にあたる地域です。
 写真1の大きな穴は、出土した遺物から飛鳥時代(7世紀後半)に掘られたものと考えられます。竪穴建物としては形が不明瞭で、自然に出来た穴としては遺構の底が綺麗に整地されていました。この穴の性格が不明瞭のまま調査を進めると、同じような規模の大穴がみつかりました(写真2)。穴は飛鳥時代のものより1m以上深く、約2mを測りました。埋土からは、鎌倉時代(14世紀頃)の土器や、多数の木材が出土し、底からは地下水が滲んで来たことから、大穴が中世の井戸であることがわかりました。
 この井戸の調査によって、ほぼ同一規模の遺構であった飛鳥時代の大穴の性格が、未完成の井戸であると想定されました。
 飛鳥時代の井戸状の遺構は、砂利混じりの非常に固く締まった土層で掘削が止められていました。当時の道具では掘り抜くことに大変苦労すると考えられたのか、井戸掘りが中止され、その後に土器を廃棄したとみられます。周辺の調査成果でも、飛鳥時代の遺構は少なく、中世以後の区画溝や建物跡が多く見つかっていることも、井戸を掘り切れなかった結果、水が取れない、居住に不適な地であったことの傍証になります。中世にようやく井戸が開削できたことで、人の居住が可能となったことが考えられます。
 水が出るまで約1mを掘り切れなかった飛鳥時代の人々の苦労が偲ばれますが、この未完成の井戸が見つかったことにより、綣地域の集落の変遷がわかってきたことは大きな成果と言えるでしょう。
問合せ
出土文化財センター TEL.553-3359 FAX.553-3514
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