本像の安置された東方山安養寺(栗東市安養寺)は、東大寺の初代別当として知られる良弁僧正の開基伝承をもち、古くは興福寺にかかわる寺院であったと伝えます。本尊であるこの薬師如来が作られた鎌倉時代は、東方山安養寺もふくめ、このあたり一帯の仏教文化が大いに栄えた時期でもあります。
東方山安養寺は、長享元年(1487)に室町幕府9代将軍足利義尚が近江の六角高頼を討つため自ら出陣した、いわゆる鈎の陣において、将軍の陣所とされました。軍の滞在は短い期間のことでしたが、寺は大きな被害をうけたようで、大永4年(1524)の『東方山安養寺本堂再建勧進状』には堂塔僧房は破損し、本尊は雨露に侵され、経巻も破損したと記されています。 また寺伝によると、その後、元亀元年(1570)に織田信長の兵火にかかったといい、江戸時代の初頭にはわずかにこの本尊が薬師堂と呼ばれる小堂に安置されていました。
鎌倉時代に奈良の西大寺で活躍した叡尊の系譜をひく戒山慧堅(1649〜1704)とその弟子湛堂慧淑(1669〜1720)によって東方山安養寺が復興されたのは、貞享2年(1685)のことでした。
東方山安養寺の周辺でも、善勝寺(栗東市御園)や萬年寺(栗東市小野)などがほぼ同時期に再興されているなど、17世紀の後半ごろ、栗東周辺の村むらでは寺の再興が活発に行われていたのでした。