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▲小槻(おづき)大社の祭礼当日、専光寺での花笠踊り
現在の"大字(おおあざ)"(栗東市○○■番地、栗東市●●□丁目の○○や●●の部分)は、基本的には江戸時代の村の範囲を引き継いでいます。しかし、中には明治7年(1874)の合併によって成立した村を起源とする大字もあります。御園(金勝中+上山依)・高野(小坂+土+今里)・目川(東目川+西目川)・上鈎(上鈎+寺内)・苅原(半苅+市川原)がその事例です。今回は、東目川村と西目川村について取り上げます。
現在は市内でも有数の人口増加地域となっている目川ですが、もともとの街並みは東海道沿いに固まっており、周辺には田地が広がっていました。そのような目川の景観が形作られた江戸時代に、この地域を東西に分けるとすれば、まず中心に線を引き、坊袋側(東)と岡側(西)に分けるという方法が思い浮かびます。あるいは、東海道を坊袋側に向いて右側を東、左側を西というように、東海道を挟んで東西に分けるという方法もあるでしょう。
ところが、明治5年(1872)に県内各地の社寺の状況を調べた資料では、東目川村に専光寺、西目川村に地蔵院がそれぞれ所在するとされており、専光寺が西、地蔵院が東にある実際の位置関係とは逆になっています。また、東海道を坊袋側に向いた場合、専光寺も地蔵院も左側にあるため、東海道を挟んで東西に分けたということでもなさそうです。
このように、東目川村と西目川村の境界については、これまではっきりとしたことは分かっていませんでした。しかし、栗東歴史民俗博物館で開催中の小地域展「目川の歴史と文化」に向けた資料調査で、両村が合併する直前に描かれた絵図が、滋賀県立公文書館に残されていることが明らかとなりました。その絵図には、東海道の両端(坊袋・岡それぞれとの境界付近)と、小柿と接する付近の田地が、西目川村の範囲として示されています。
東西それぞれの目川村が、江戸時代にどのように運営されていたのかは明らかではなく、地元の伝承等も残されておりません。かつてあった村々のすがたを伝える貴重な資料を、この機会にぜひご覧ください。
▲東目川村と西目川村の範囲を示す絵図
(濃い色が西目川村)
(滋賀県立公文書館蔵『滋賀県行政文書』明-へ-62 2-6)
▲地蔵盆当日の地蔵院
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小地域展
「目川の歴史と文化」
会期 5月11日㈰まで
※ 詳細は
お知らせ版8ページ
をご覧ください
歴史民俗博物館
TEL.
077-554-2733
FAX.077-554-2755
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