223豊臣政権の実力派官僚 栗太武士· 宮城豊盛
近江国は、政治の中心地である奈良や京の都に隣接し、中央と地方を結ぶ交通の要衝だったため、日本の歴史が大きく転換する時、主要な舞台となりました。古代の壬申の乱、源平合戦、南北朝の内乱などでは、有名·無名の近江の人びとがこれらの舞台で大きな役割を担いました。そして、戦国時代から織田信長·豊臣秀吉による天下統一へと続く時期には、信長の安土城築城が象徴するように、近江国は時代と 社会が転回する起点となったのです
栗東市域の出身で豊臣秀吉に仕えた武将· 宮城豊盛という人物は、この過程で、重要な役回りを務めました(写真右)。宮城氏は、陸奥国宮城郡の武士で、南北朝時代に足利尊氏に従い上洛 し、近江国に住んだと伝えます。のちに栗太郡で勢力を持ち、戦国大名六角氏の奉行人を務める者もいました。永禄11年(1568)に織田信長が近江国に侵攻すると、その配下に属しました。
宮城豊盛は若くから豊臣(羽柴)秀吉の家臣となり、近江国や和泉国(大阪府)の村の検地や、紀州から四国·九州平定へと続く秀吉の統一戦争における兵糧米輸送、豊後国(大分県)の代官など、民政と軍政の担当者として働きました。朝鮮出兵に際しては対馬で後方支援にあたり、秀吉の没後には、朝鮮半島にいる軍隊に撤退命令を伝える使者として渡海しています。当時、近江国出身で秀吉に取り立てられ、豊臣政権の行政官として能力を発揮する武将が多く生まれ、政権の運営を支えていました。石田三成はその典型です。豊盛は、三成ほどの出世はしませんでしたが、同じ道をたどったといえます。
市内東坂の阿弥陀寺に接する宮城家墓所の奥に宮城豊盛の墓があります。高さ2メートルを超す大型の五輪塔です(写真左)。令和5年度から7年度に栗東市教育委員会が墓所の保存を目的に、測量と発掘調査、文献調査の総合調査を行い、成果報告書を刊行しました。
ミニ展示では、肖像画や自筆の手紙、墓所出土遺物を展示し、宮城豊盛を紹介します。
■ミニ展示 「豊臣政権を支えた栗太武士 宮城豊盛」
会期 7月18日(土)から8月30日(日)まで
※詳細はお知らせ版8ページをご覧ください

