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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 江戸時代には、将軍の代替わりなどに際して、朝鮮国から外交使節が派遣されていました。いわゆる朝鮮通信使というもので、慶長12年(1607)から、合計12回の来日がありました。この朝鮮通信使の経路は、釜山から対馬に至り、そこから下関を経て瀬戸内海の航路をとり、大阪湾から淀川をさかのぼり、淀(京都市伏見区)から京を経て、逢坂峠を越えて近江国に入ります。近江国では大津代官の小野氏の菩提寺である本長寺で休憩もしくは宿泊して、瀬田橋を渡り、草津から守山宿に向かいます。守山を過ぎて野洲郡行合村(野洲市行畑)からは、中山道ではなく、朝鮮人街道といわれる道を通りました。朝鮮人街道は、近江八幡、安土などを経て、鳥居本(彦根市)で、中山道に合流しています。
 さて、江戸時代の栗東市域に東海道と中山道が通っていたことは、よくご存じのことでしょう。これらの街道には、宿が置かれました。この宿というのは、もとは旅人が宿泊する集落の意味ですが、主要街道で旅人の宿泊や荷物運搬のための人馬を置いた所で、宿駅とも呼ばれています。江戸時代に東海道には53、中山道には67の宿駅があり、栗東市域の近辺では、東海道に草津宿、石部宿、中山道に守山宿が置かれていました。
 これらの宿駅での人馬の数は、東海道は百人百疋、中山道は五十人五十疋、そのほかは二十五人二十五疋に定められていましたが、人馬が不足する場合には、宿駅の近辺の村々が石高(米の量に換算した生産高)に応じてこれらを提供する助郷という制度があり、栗東市域の多くの村は、草津宿や石部宿、守山宿の助郷に定められていました。
 助郷には賃銭は支払われたものの、人足には働き盛りの男性が充てられたことや、宿駅に提供する馬を飼育しておくことなど、特に農繁期には農民にとって大きな負担で、人馬の労役を代銀で納める場合もありました。そして、朝鮮通信使の来日に際しても、これらの村々に国役金(幕府が臨時に賦課した税)が課せられることがあり、さらに大きな負担となったようです。
 文化5年(1808)には、下鈎村の庄屋丈助と山田御倉村(草津市)の庄屋長左衛門が草津宿助郷41カ村の惣代として、朝鮮人来日の国役金の免除を願い出ています。これは、先年の洪水で助郷の村々のうち数カ所で堤防が決壊したこと、また琵琶湖辺の七カ村でも近年大洪水に見舞われ田地が冠水していること、文化元年には水難で免除された部田村(草津市)の600石が他の助郷村に割り当てられたことなどをあげて、明和2年(1765)の朝鮮人来日の折と同じように免除を求めるものでした。
 文化5年の国役金免除願いは、天明7年(1787)に11代将軍に就いた徳川家斉の祝賀のための朝鮮通信使と関わります。本来は、早々に来日があるはずなのですが、諸事情から延期となっていたのです。
 下鈎村の庄屋丈助などの願い出が受理されたのかどうかはわかりませんが、この際の朝鮮通信使は、さらに延期されて文化8年(1811)に来日することになり、しかも、江戸ではなく、対馬に留め置かれることになったことから、結果として下鈎村などがこの際の国役金を負担することはなかったものと思われます。

 栗東歴史民俗博物館では、3月5日(土)から小地域展「下鈎の歴史と文化」を開催します。
問合せ
栗東歴史民俗博物館 TEL.554-2733 FAX.554-2755
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