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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 東坂には元禄4年(1691)の「近江国栗太郡東坂村指出シ之帳」が残されています。これは、一般に村差出帳や村明細帳、村鑑などと呼ばれているもので、江戸時代の村の概要を記したものです。その内容は、現在でいえば、市勢要覧や町勢要覧に当たるものと考えて良いでしょう。これは、領主が各村に命じて書き上げさせたものですが、毎年作成されるわけではなく、主に、領主の交代の時や幕府の巡検使が派遣される際、領主が村を回る折などに提出されるものでした。
 江戸時代の東坂は、近江国内の多くの村にみられるように一村が複数の領主に支配される相給という形態で、幕府直轄領と膳所本多氏領とに分かれていました。この「指出シ之帳」は、このうち幕府直轄領のもので、実際に提出した差出帳の控だと思われますが、元禄4年には新たに辻弥五左衞門が代官となっているので、この交代に当たり作成されたものと考えられます。
 内容は、村高(村の土地の公定生産高)に始まり、土地の生産能力の等級ごとの反別(面積)と石高(生産高)、年貢高、家数、男女数、牛馬数、村の産業などが詳細に記されており、当時の村の生活を知る貴重な史料であるといえます。
 これにより村の姿を簡単に見てみると、3月中旬から苗代を作り始め、4月中旬から5月上旬までに田植えを行います。稲の種類は、「すくはり」「ずれひ」「けくろ」というものですが、「すくはり」は「栖張」という中稲の品種です。「けくろ」は陸稲の「毛黒」のようですが、「ずれひ」についてよくわかりません。田圃の肥料は、脂を搾ったイワシを乾燥させた干鰯というもので、江戸時代から明治時代にかけて、油粕とともに一般に用いられました。また、5月から8月までは大麦と小麦も植えていました。農閑期には、女性は麻布や木綿を作り、男性は霜月(11月)から正月までは、薪や縄、筵を作っていました。
※江戸時代の東坂については、「小地域展 東坂の歴史と文化」で4月15日まで紹介しています。
問合せ
栗東歴史民俗博物館 TEL.554-2733 FAX.554-2755

◆今後の掲載予定
りっとう再発見…6、7、9、10、12、1、3月号
すだじいの百年日記…5、8、11、2月号

「わが校・園のくりちゃん元気いっぱい運動」を連載!
 本市独自で「ふだんの生活習慣」のアンケート調査を始めた平成18年度、子どもの生活習慣の重要性は、全国的に着目され始めたところでした。しかし、「全国学力・学習状況調査」、「全国体力・運動能力、運動習慣等調査」等の調査の分析や、脳科学の理論づけから、「子どもの能力を十分発揮させるには、家庭での生活習慣が重要」という考え方は、今や常識になりつつあります。
 市内の各校・園では、『「早ね・早おき・朝ごはん」がんばりウィーク』の設定など、家庭との連携、子どもたちへの啓発に継続的に取り組み、着実に成果をあげています。
 来月号から「わが校・園のくりちゃん元気いっぱい運動」と題し、この紙面をとおして各校・園の取り組みをリレーで紹介します。お楽しみに!
問合せ
学校教育課 TEL.551-0130 FAX.551-0149
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