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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 栗東歴史民俗博物館にとって、霊仙寺は縁の深い地域です。敷地内に移築されている旧中島家住宅は、30年ほど前まで、霊仙寺に建っていた民家なのです。
 旧中島家住宅が霊仙寺に建てられたのはおよそ150年前、明治時代初期のこと。霊仙寺に住む中島文次郎が結婚し、分家したことをきっかけに新たに家を建てたのです。その頃の霊仙寺は戸数約50戸、人口200人余りで、こじんまりした農村の風景が広がっていました。
 霊仙寺の古い集落は周囲に水路をめぐらせていますが、文次郎と妻つねとの新居はこの南東辺の水路に接して建てられました。ちょうどその頃から、霊仙寺の集落から見える風景が変わり始めました。明治6年(1873)、集落の水路よりさらに西側を流れる中ノ井川(海老川とも呼ばれる)に物資を運ぶ船が下るようになります。この船は伊勢落で荷物を積み、蜂屋と綣の船着場で荷物をさらに積んで川を下りました。琵琶湖を経て大津まで向かうこの船を文次郎夫妻と、明治2年に生まれた長男文五郎は庭先で見送ったことでしょう。
 翌明治7年には集落の南西に志那道(志那港道)が整備されます。馬や荷車が通れるよう道幅は2間(約3・6m)と大きな道路で、従来の東海道から琵琶湖を経て大津へ向かうよりも距離も時間も短縮できる道路です。行きかう人の流れは、暮らしのなかに新しい時代の息吹を感じさせたことでしょう。
 文五郎は成長し、明治32年(1899)には長男常三郎が誕生します。常三郎は祖父が建てた家に深い思い入れを持って大切に使いました。時代が昭和に変り、次第に周囲の家並みが草葺きから瓦葺きに変わっていくなか、常三郎は最後まで草葺き(葦葺き)にこだわり続けました。当時、志那道(県道31号線)から見ると霊仙寺で1軒、葦葺きの屋根を覗かせる中島家住宅はよく目についたそうです。昭和60年(1985)、老齢に達した常三郎はこの大切な我が家を市に寄贈し、5年後に亡くなりました。
 中島家3代が暮らした時代はもちろん、博物館では古代からの霊仙寺の歴史と文化について、3月11日(土)からの小地域展「霊仙寺の歴史と文化」で紹介します。ぜひご覧ください。
問合せ
栗東歴史民俗博物館 TEL.554-2733 FAX.554-2755
《治田保育園》「ありがとうってうれしいね」
 3歳児うさぎ組では、11月から当番活動を始めました。
 「今日は○○当番や」と自分から気付いたり、友達と「○○ちゃん、今日お当番やな」と誘い合ったりして取り組んでいます。
 毎朝のお休み調べ・みんなのお帳面並べ・椅子並べなど、当番になると、いろいろな手伝いがあります。みんなの手伝いができることで、少しお兄さんお姉さんになった気分になり、「お当番さん、ありがとう」と言ってもらうことがうれしくて、張り切っている子どもたちです。
 「ありがとう」は子どもたちにとって魔法の言葉、「ありがとう」の言葉をかけられることでほんわかと温かい気持ちになります。
 友達にも自然に「ありがとう」と声をかけられる子どもに育ってほしいと願っています。
問合せ
幼児課 TEL.551-0424 FAX.551-0149
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