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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 臨済宗・曹洞宗とともに、日本の三禅宗の1つに数えられる黄檗宗は、江戸時代前期、中国から渡ってきた隠元隆g(1592〜1673)が、京都宇治に黄檗山萬福寺を建立したことに始まる新しい宗派です。隠元を初めとする多くの渡来僧たちによって、当時の最新の中国文化が取り入れられた黄檗宗は、江戸時代の人々に大きなインパクトを与えました。
 そのような黄檗宗は、天台宗を初めとして、古くから仏教文化が栄えた歴史的風土を持つ近江にももたらされることとなります。江戸時代前期の近江には、戦国時代に荒廃した寺院が多く、黄檗僧たちは、これらの寺院の堂宇や寺地を譲り受け、黄檗寺院として再興することで、黄檗宗を広めていきました。現在、栗東市内には、萬年寺(小野)と円光寺(北中小路)という2つの黄檗寺院がありますが、いずれもこのような流れの中で開かれています。
 ところで、現在の栗東市域には、江戸時代中期から後期にかけて、この2つの寺以外にも、さらに2つの黄檗寺院があったことが知られています。東坂村(東坂)の大日寺と、上山依村(御園の一部)の智即寺です。
 このうち大日寺は、元禄5年(1692)に東坂村から黄檗宗に用地を提供し、宝永2年(1705)に正明寺(蒲生郡日野町)から開山を招いて開かれ、山号を「天照山」としました。村内の阿弥陀寺の本尊(阿弥陀如来立像)は、その開祖・隆堯法印が、伊勢神宮で天照大神から授かったとする伝承を持ち、「天照仏」と称されて信仰を集めたことで知られていますが、そのことを意識してつけられた山号・寺号と考えられます。ただし、短期間で姿を消したらしく、萬福寺の末寺をまとめた延享2年(1745)の記録にはその名はありません。
 また、智即寺は、延享3年(1746)に、上山依村が領主である膳所藩に願い出て、村内の字智即寺観音堂に、円光寺の僧・自徹を招いて庵を建立したことに始まり、現在の御園の辻越地区にあったと考えられています。早くも宝暦3年(1753)には無住となったとされ、萬年寺の住職が兼務することとなりました。その後、山城国(京都府)から住職を招いたものの、寛政12年(1800)には、住職が大萱新田(大津市瀬田)への移転を願い出ます。文化元年(1804)には「断絶」した智即寺は、安政6年(1859)には「無住」の寺として、萬年寺の管理となっています。
 江戸時代前期に新たにもたらされた黄檗宗は、短期間のうちに人々の心をつかみ、黄檗文化が花開きましたが、その一方で、歴史の流れの中で姿を消した幻の黄檗寺院もあったのです。

■隠元禅師350年大遠諱記念展「黄檗の華」
会期…5月21日(土)から7月3日(日)まで

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問合せ
栗東歴史民俗博物館 TEL.554-2733 FAX.554-2755
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