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りっとう再発見 栗東に残る日清戦争
 明治22年(1889)の7月、官設鉄道が東海道線(現在のJR東海道線)で、最後まで未開通となっていた深谷(米原市)・馬場(現在の膳所)間が開通し、草津駅も開業しました。同年の12月には、民間の鉄道会社(私鉄)である関西鉄道株式会社(以下、関西鉄道)によって、現在のJR草津線の草津・三雲間が開通し、翌明治23年(1890)2月には、三雲・柘植間も開通しています。
 関西鉄道は、官設鉄道が東海道線を中心に整備されたのに対し、そのルートから外れた三重県・滋賀県の旧東海道沿いの地域と、官設鉄道をつなぐことを目的に開業されましたが、その後、愛知県・京都府・大阪府・奈良県・和歌山県にも鉄道網を広げ、名古屋・大阪間の独自の直通ルートを開くに至りました。
 さて、関西鉄道では、鉄道網を広げていく中で、乗客獲得のためのさまざまな経営努力を行っています。関西鉄道が注目したものの一つが、琵琶湖の船便です。当時、東海道線の馬場駅は開業していたものの、大津の中心部からは遠く、また、運賃も7銭であったのに対し、紺屋関(大津市島の関付近)と山田港(草津市山田町)を結ぶ山田航路の船賃は3銭で、多くの旅客が山田航路を利用していました。関西鉄道は、この旅客を草津線に呼び込もうと考えたのです。
 明治24年(1891)7月の新聞記事によれば、関西鉄道では、山田から野村、渋川を通り、草津駅につなぐ鉄道の敷設を計画しています。同じ頃には、この路線が実現すれば、山田航路の船賃は3銭から2銭に引き下げられるだろうと予測した上で、山田・草津間の運賃を2銭と仮定し、大津・草津間の船便・鉄道を合わせた運賃を4銭と見積もって、大津から草津までの移動がより安く便利になると報じる新聞記事も見られ、注目度の高さがうかがわれます。最終的には、この路線は東海道線との立体交差や草津川を渡る鉄橋などをともなうため、工事費用が莫大になることなどが問題となり、実現には至りませんでした。
 明治時代を代表する大手私鉄として、日本の鉄道史に確かな足跡を残した関西鉄道は、明治40年(1907)に国有化され、その歴史に幕を下ろしました。関西鉄道が開いた鉄道の多くが現在のJRに受け継がれ、旅客に利用されています。山田・草津間の鉄道が実現していればどうなっていたか。ふと、そのような想像をしてしまうのも、歴史の面白さかも知れません。

■手原駅開業100周年記念展 「街道から鉄道へ」
 関西鉄道に関する資料も展示しています。
 会期 11月6日(日)まで
※詳細はこちらをご覧ください
問合せ
栗東歴史民俗博物館 TEL.554-2733 FAX.554-2755
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