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椿山池ノ浦遺跡は、古墳時代中期(およそ1600年前)の首長墓である椿山古墳の周囲にひろがる遺跡で、過去の調査では椿山古墳にかかる祭祀に使用した土器が出土し、奈良時代の溝や集落の痕跡などが見つかっています。
昨年7月から9月にかけて行われた発掘調査では、弥生時代の終わり頃から平安時代にかけての河川や溝などが見つかりました。調査前は、椿山古墳の周濠は二重になっていると考えられており、その外側にあたる濠が確認される可能性が期待されていましたが、残念ながら見つかりませんでした。おそらく調査地のさらに内側(西側)に存在していたと思われます。
また、椿山池ノ浦遺跡は、椿山古墳がつくられた古墳時代からの遺跡と考えられていましたが、河川(幅13m以上、深さ1m以上)から出土した土器は弥生時代後期のもので、古墳がつくられた時代にはすでに大半が埋まっていたことがわかりました。その後、河川は飛鳥時代以降に規模を縮小し、溝として何条かに分かれて存在しました。そのひとつである東端で見つかった溝から、飛鳥時代から平安時代にいたる土器や瓦が出土しました。その中で注目すべき遺物として朝鮮半島に系譜をもつ須恵器の三足壺と双耳壷があります。
須恵器の三足壺は、7世紀前半のもので、壷に三本の脚が付いた珍しい土器です。三本の脚を付ける土器は、日本では主流となるものではありませんが、朝鮮半島の百済の地域では、日常的に使用される器に三本脚を付けたものがみられます。このことから、三足壺のルーツが朝鮮半島にあると言われています。また、古くは中国の青銅器に形が似たものがあることから、そこにもルーツがあるとされています。
ところで、この三足壺が日本では、今回の事例を含めて全国で26遺跡、33例が知られています。近畿地方での出土例は、栗東市金勝出土(木内石亭『曲玉問答』の絵図(写真右下)にある江州栗太郡金勝山岩窟)とされているものと、草津市襖遺跡の2例があるのみで、いずれも旧栗太郡から出土しています。今後、三足壺が集中して出土する北九州や、岐阜から愛知周辺と併せて注目される地域のひとつになると考えられます。
調査地周辺である安養寺山の丘陵は、多くの古墳が築造されていることで知られる場所で、椿山古墳とおおむね同時期とされる5世紀前半の新開古墳(安養寺)、6世紀中頃から後半を中心とする和田古墳群(下戸山)、7世紀前半の新開西古墳群(安養寺)など5世紀以降、渡来人もしくはそのゆかりのある古墳が代々多く存在しています。このような状況から、今回の調査地周辺にも渡来系の古墳が存在して、古墳に供えられていた土器が後世に何らかの形で移動した可能性が高いと考えられます。
須恵器三足壺の発見は、今後本市が渡来文化を追求していく上で欠かせない重要な資料となっていくでしょう。 |
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問合せ
出土文化財センター TEL.553-3359 FAX.553-3514 |
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