戦争遺跡見学会〜芦原国民学校・逢阪国民学校の面影を訪ねる〜レポート


2004年8月18日(水)、「平和のいしずえ 2004」展の関連行事として、戦争遺跡見学会を行いました。栗東市内外から集った参加者24名が、午前中はピース大阪(大阪国際平和センター)、午後はアジア・太平洋戦争末期に大阪から栗東へ集団疎開していた芦原国民学校・逢阪国民学校の跡地を見学しました。

午前中、見学したピース大阪では、芦原国民学校・逢阪国民学校も被災、木造校舎を焼失した大阪大空襲の様子を中心に見学しました。
午後からは、芦原国民学校の跡地を見学しました。戦争中にも使われていた鉄筋コンクリート造りの校舎は現在、東洋紙業株式会社の本社・工場として利用されています。今回は東洋紙業株式会社のご好意により、建物内部を見学させていただきました。当時葉山村大橋の慶崇寺(現:栗東市大橋)に集団疎開していた女性お二人に建物の解説をしていただき、疎開当時の暮らしぶりをお話ししていただきました。参加者には当時国民学校4年生で疎開を受け入れた大橋地区の方や、芦原国民学校が葉山村に疎開する以前に疎開していた大津の響忍寺の住職さん(当時4歳)もおられ、疎開当時の思い出話しに花が咲きました。最後に、疎開体験者からの

「わたしたちのような戦争体験を、絶対に子どもや孫にさせてはならない」

という言葉を、参加者たちは真剣な面持ちで聞き入っていました。

    
▲元芦原国民学校校舎の階段を行く  ▲元芦原国民学校校舎の屋上で



その後は逢阪国民学校の跡地を訪ねました。現在、この場所は日東南保育所、大阪市建設局、逢下会館等の敷地になっていて、国民学校当時のものはわずかに保育所と建設局の敷地を取り巻く塀が残るのみです。ここでは、当時、治田村目川の専光寺(現:栗東市目川)に集団疎開していた男性からいただいた手記をもとに、その方のお兄さんで同じように志津村部田の西方寺(現:草津市青地町)に集団疎開していた方から逢阪国民学校の集団疎開の様子などをお話しいただきました。
参加者たちは、男性の手記に記された

「…集団疎開は幼い命を救ってくれた。しかし、将来の兵力を維持するための政策と知ったときガッカリした。」


という一節をめぐって、集団疎開の持つ意味について活発に意見を交わしていました。また

「とにかく戦争はいけない。何がいけないか。始めるのはコントロールができるが、やめる(敗ける)のが難しいから。そのため戦争の被害は責任ある大人(の一部)よりも、女・子どもという弱い市民に及ぶということ。これは悲しいほどいけないことだ。」


の一節に、平和への思いを新たにしていました。


      
▲逢阪国民学校跡地で疎開体験者から話を聞く  ▲参加者は活発に意見を取り交わした



▲戦争遺跡見学会の参加者たち(於:逢下会館)





※※※戦争遺跡見学会 後日談※※※


戦争遺跡見学会がきっかけとなり、8月25日(水)芦原国民学校を案内してくださった疎開体験者のお二人が、疎開先の慶崇寺(栗東市大橋)を訪ねられました。
お寺では疎開当時は学生だった住職がお二人を迎えられました。また、お寺の隣に住み、お風呂を貸したり、おやつをあげたりされたりと何かと疎開学童のお世話されていた女性や、戦争遺跡見学会にも参加された当時受入校の葉山国民学校4年生だった方やその同級生がお寺に集合してくださいました。
また、午前中は戦争遺跡見学会に住職が参加されていた大津氏の響忍寺を訪ねられたそうです。



→戦争遺跡見学会〜芦原国民学校・逢阪国民学校の面影を訪ねる〜の配布資料あります。
  必要な方は、栗東歴史民俗博物館までご連絡ください。

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