栗東市の歴史(歴史のしらべ)

更新日:2017年06月23日

狛犬(大宝神社)
人々はいつ頃から住み始めたのだろう、原始から中世の架け橋
新開古墳出土、「鉄三角板革綴短甲」

栗東に人びとが住みはじめたのは、いつごろからなのだろうか。それを知る手がかりに「下鈎遺跡(しもまがりいせき)」がある。この遺跡は紀元前四千年頃のものと推定され、その頃にはすでに栗東で人びとが生活を営んでいたことがわかる。そのほか、縄文期の遺跡に霊仙寺(りょうせんじ)・狐塚(きつねづか)(安養寺地先)・野尻(のじり)などの遺跡が発見されている。

弥生時代に入ると稲作が全国に広まった。食糧が貯えられるようになると社会に階級が生まれ、支配者と被支配者の関係が成立するようになった。栗東においても、県下で最も早い時期に稲作が行われはじめた遺跡の一つに霊仙寺遺跡がある。このほか弥生時代の代表的な遺跡として、下鈎遺跡(しもまがりいせき)、中沢遺跡(なかざわいせき)、小柿遺跡(おがきいせき)などが知られている。

栗東の高野(たかの)や辻(つじ)には、古墳時代はじめから六世紀頃の竪穴式住居跡が多数発見され、当時の村落形態を知ることができる。

狛坂磨崖仏

大和王権が成立すると、栗東の首長たちも次々とその傘下に入っていった。こうした首長たちの墓は一般に墳丘墓(高塚)であり、市内には現在八十基ほど確認されている。なかでも椿山(つばきやま)・新開(しんがい)両古墳は、大和王権下の代表的な古墳である。新開古墳からの出土品は、この地域の首長の勢力と位置づけを知る上で貴重なものとなっている。

大津に宮を移した天智天皇が没すると、大海人皇子と大友皇子の間で皇位継承争いが起った。壬申の乱である。『日本書紀』には、大海人皇子の軍勢が、大友皇子側の「栗太軍」を破って瀬田に至ったとある。この記述からも栗東一帯はまさに戦場と化したことがうかがえる。大友皇子側の将として活躍した廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)は、下戸山(しもとやま)にある五百井(いおのい)(蘆井)神社に関係のある人物ともいわれている。

金勝寺

八世紀中頃、律令国家の成熟のなかで全国に条里制が布されたが、栗東の条里制の名残として、現在でも十里(じゅうり)、綣(へそ)の七里(しちり)などの地名が残されている。

『続日本書紀』天平9年(737)の条に、栗太郡出身の采女、小槻山君広虫(おつきやまのきみひろむし)が外従五位下に叙せられたと見える。このことからも、栗東の豪族と朝廷のつながりが深まっていったことがわかる。また、小槻氏の一族は京に居を移し、平安時代以降、朝廷の吏僚となり官務家として栄えた。

善勝寺、千手観音菩薩像

平安時代には荘園が発達し、栗東には延暦寺を中心とする天台宗系寺院の荘園が集中することになった。また、平安期には、それまで禁止されていた僧の山林修業が解禁され、次々と入山修業をはじめる僧が現われた。興福寺の僧願安(がんあん)もその一人。彼は弘仁年間(810~824)に金勝山(こんぜやま)に入り、大菩薩寺(金勝寺(こんしょうじ))を建立。天長10年(833)には国家公認の定額寺となっている。金勝寺を中心に花開いた栗東の仏教文化は、現在に残される狛坂廃寺(こまさかはいじ)の巨大な磨崖仏や金胎寺(こんたいじ)阿弥陀如来像、善勝寺(ぜんしょうじ)千手観音菩薩像などにしのばれる。

源平の争乱の中、鎌倉方の武将として活躍した人物に佐々木高綱(ささきたかつな)がいた。文治年間(1185~1190)、近江守護に任ぜられた佐々木氏は近江全域へと勢力を拡大していき、のち京極氏(きょうごくし)と六角氏(ろっかくし)の二家に分かれて活躍した。このころの栗太郡は、青地荘(あおじのしょう)(現在の草津市青地)に本拠を置く青地氏が支配していた。鎌倉期の青地氏は栗太一帯の守護代を務め、南北朝期以後は六角氏の被官となった。

鎌倉時代には、地頭による荘園への進出があいつぎ、荘民は領家と地頭の二重支配を受け苦しむことになった。しかし、鎌倉前期の栗太郡北部の荘民たちは、まだ荘園への地頭進出を拒む力が残っていた。当時承久の乱で勲功をたてた佐々木信綱(ささきのぶつな)は、その恩賞として嘉禄3年(1227)に栗太郡北部に地頭職を得た。しかし、この地の領家・領民は延暦寺を通じて信綱の地頭職停止を上奏。寛喜元年(1229)、幕府はこれを認めたのである。

足利尊氏が京都に幕府を開くと、南北朝の対立は一層激しさを増した。守山で行われた南朝方と京極道誉の合戦により、栗太郡の半分が灰と化したという。そうした中、貞和3年(1347)に尊氏が、文和4年(1355)に義詮(よしあきら)が金勝寺へ戦勝祈願の祈祷を命じたという。

またこの時代、浄土宗、浄土真宗の信仰が盛んとなった。浄土宗の興隆(こうりゅう)は、応永年間(1394~1428)に、川辺出身の僧隆堯(りゅうぎょう)が東坂に草庵を結び、その遺跡に宗真(そうしん)が阿弥陀寺を建立したことにはじまる。浄土真宗が盛んとなったのは、蓮如の布教によるところが大きく、彼は享徳2年(1453)『三帖和賛(さんじょうわさん)』を書き移して手原道場に与え、翌年には『往生要集延書(おうじょうようしゅうえんしょ)』を書き移して安養寺に与えた。延暦寺と対立する蓮如は各地を流転し、応仁元年(1467)には安養寺に身を置いていた。さらに、蓮如の子実如が道場開基の際の本尊である方便法身尊像を各地の道場に与え、安養寺には明応2年(1493)実如裏書の像が現在残されている。

中世の文化財には、東方山安養寺の薬師如来像や、大野神社(おおのじんじゃ)の楼門、大宝神社(だいほうじんじゃ)の社殿などがある。

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栗東歴史民俗博物館
〒520-3016
栗東市小野223-8
電話:077-554-2733
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