テーマ展
平和のいしずえ2006


会期:2006年7月23日(日)〜8月27日(日)

←「敵の巨艦を海底に!敵の領土に日の丸を!」
  昭和16年(1941)滋賀県蔵

ポスターを制作した情報局は昭和15年に組織された、国の情報・宣伝・文化等の統制にあたる機関。煙をはいて砲を発する軍艦のモノクロ写真に被せて赤と白の文字で、勇ましい言葉が踊る。情報局をはじめ、大政翼賛会などが戦意高揚を狙って作成したこれら戦時中のポスターは、写真の構成、文章、文字の配置、文字の字体、そしてその効果にいたるまで、当時の広告技術者らによって綿密に計算されたうえで作成されていた。


 栗東市では昭和63年に「心をつなぐふるさと栗東平和都市宣言」を行い、以後毎夏「平和のいしずえ」事業を全市で取り組んできました。
 平成2年9月に開館した栗東歴史民俗博物館でも、翌平成3年より毎年夏に「平和のいしずえ」展をシリーズで開催しています。この間、戦争を体験した多くの市民の方々から貴重な体験をお聞かせいただいたり、戦争をくぐり抜けてきた多くの資料を寄贈していただいたりといったことがありました。

 本年度は特に戦時下に作られたポスター類を特集します。ポスターに記される勇ましいコピー、愛国心を喚起(かんき)するコピー。戦争という特殊な状況下で、氾濫(はんらん)するこうした言葉に日常的にさらされながら、多くの国民が戦争に邁進(まいしん)していった時代の様相を改めてみつめ、ひとりひとりが戦争と平和について考えるきっかけとしていただけたらと思います。

※パンフレットはこちらをご覧下さい

関連行事】 戦争遺跡見学会〜大阪大空襲の記憶 国次高射砲陣地跡を中心に〜
開催日時:8月11日(金) 8:30〜17:00
申込み先着順
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【展示内容】      →出品目録はこちら

1.近代兵制の成立  ― 国民皆兵(こくみんかいへい)
・・・ 明治維新後、近代化を進める明治政府は、兵制の整備に着手した。明治6年(1873)に発布された徴兵令(ちょうへいれい)では、国民皆兵を原則とし、20歳以上の男子は徴兵検査を受けて兵役につくことが義務付けられた。ただし、例外も多くあり、戸主や養嗣子、代人料を支払うと兵役が免除されるなど、制度上完全とはいえないものであった。そこでこの法律は明治22年(1888)1月に改正制定され、これにより日本国民の男子は20歳になれば徴兵検査を受けて失格とならない限り、3年間の兵役につくことを義務付けられた。
 これにより女子を除くすべての国民が兵士となる、国民皆兵の制度が確立した。

2.日清・日露戦争
・・・ 国民皆兵が実現した明治22年(1888)以後、日本が最初に経験した戦争が、明治27年(1894)の日清戦争であった。この戦争は、日本が当時アジアの大国とされた清(しん 今の中国)と戦った戦争である。この戦争に日本軍は約24万人の兵士を投入し、栗東からもわかっているだけで約60人の人たちが兵士として戦地へ赴(おもむ)いた。また、明治37〜38年(1904〜05)にかけて、日本がロシアと戦った日露戦争では、約108万人の兵士が投入され、約8万人が戦死した。栗東の村々からも329人が従軍し、33人が戦死している。
 国民皆兵は、ごく普通に村で生活していた男性が、ひとたび戦争となると戦場で銃を撃ち、時に戦地で没してしまうという時代を作り出した。

3.15年戦争のはじまり
・・・ 昭和初期に起こった世界的な不況、世界恐慌(せかいきょうこう)によって大打撃を受けた日本は、この混乱を東アジアへの軍事的・経済的進出によって打開しようとした。日本は昭和6年(1931)の満州事変(まんしゅうじへん)を契機に中国東北部に侵略を開始、さらに昭和12年(1937)には中国との全面戦争へと発展した。この戦いがおわらぬ状況で、昭和16年(1941)にはアメリカ・イギリスなどの連合国とのあいだで戦闘状態に突入した。この戦争が終結したのは昭和20年(1945)8月で、日本は15年間という長期にわたる戦争を経験することとなった。

4.アジア・太平洋戦争   ― 国家総動員体制下のくらし
・・・ 日中戦争開戦の翌昭和13年(1938)に施行された国家総動員法(こっかそうどういんほう)では、経済や流通のほか、思想や言論にいたるまで、国民生活のすべてが戦時体制下に組み込まれた。前線の兵士のみならず、国内に残る一般国民までが「銃後(じゅうご)」とよばれ、慰問に代表される兵士に対する援護のみならず、勤労奉仕による労働力の提供、国債の購入や物資の供出、増産など、生活のあらゆる面での戦争への支援協力が求められた。ポスターはこれら銃後の人々の戦意を高揚し、戦争へ協力する風潮を盛り上げる役割の一端を担ったのである。

↑  「一家の幸福 魔法焜炉」       
アジア・太平洋戦争期  滋賀県蔵

 焜炉(こんろ)のポスターに「銃後の護(まも)りは台所から」と記される。銃後とは、戦場の後方の意味であるが、アジア・太平洋戦争期には、前線の兵士に対して、国内で後方支援する一般国民の意味で用いられた。総動員体制下の日本では、台所に立つ女性までもが婦人会などに組織され、慰問(いもん)や物資の供出などのかたちで戦争に協力していくことになる。
↑  「荒鷲のために蓖麻を栽培しよう」
アジア・太平洋戦争期 滋賀県蔵

アジア・太平洋戦争の戦局の悪化にともなって、石油や金属は目に見えて不足するようになった。荒鷲は陸軍の戦闘機の総称であるが、戦闘機の潤滑油ですら、代用品のヒマシ油が必要となった。その原材料となる蓖麻(ヒマ)の栽培を訴えるポスター
↑  「少年通信兵募集」
アジア・太平洋戦争期 滋賀県蔵

戦争も末期に近づくと、戦況の悪化は深刻で兵員も不足するようになった。徴兵年齢はそれまでの20歳から18歳に引き下げられ、10代の若者が戦場に送り込まれるようになった。


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