テーマ展
すこし昔のくらし
 ‐農家のいちにち あさ・ひる・ばん‐

平成18年(2006)12月9日(土)〜2月12日(月)



 今からおよそ50年ほど前。昭和20年(1945)におわった太平洋戦争後の混乱もおちつき、科学や工業が大きな進歩をみせ、日本の経済はかつてない勢いで成長をとげました。国全体が豊かになっていったこの時代、テレビなどの電化製品が登場し、人々のくらしは短いあいだに大きくうつりかわったのでした。
 高度経済成長と呼ばれたこの時代以前には、栗東に住んでいる人の大半が農業を営んで暮らしていました。耕運機やコンバインのような田畑でつかう機械もなく、またテレビも洗濯機もガスコンロも掃除機もなくて、水道もひかれていなかった時代でしたが、牛を飼ってその力を借り、さまざまな工夫をこらした道具をつかって上手にくらしていたのです。自然を相手にする仕事でしたから、季節ごとに少しずつ生活のリズムも違いました。
 今の子どもたちや若い人々にとっては、おじいさんやおばあさんにあたる世代以前の人々が経験してきた、昔ながらの農家のくらしを、朝起きてから夜寝るまでの一日の生活の、それぞれの場面でつかわれてきた道具を中心に紹介します。


農家の一日をきざむ・・・
  柱時計(ハシラドケイ)

ゼンマイで動く掛時計です。振り子が一時間ごとに鳴るのでボンボン時計とも呼ばれます。文字盤には二つの鍵穴が空いていて、鍵を差し込んでゼンマイを回します。ゼンマイを回すのはたいてい子どものお手伝いとされ、一度巻けば八日間動く「八日巻」や十日間動く「十日巻」などが使われました。戦争中に24時間表示が普及したため、この時計の文字盤には、「13時〜24時」が後から書き加えられています。
朝の必須アイテム・・・
   手水盥(チョウズダライ)

現在は水道の流水で顔を洗う人が多いですが、今から50年ほど前までは井戸水や川の水を洗顔に使っていました。そのため、洗顔のために水を溜め置く容器が必要でした。洗面器は昔は「盥(タライ)」と呼ばれていました。明治時代には金属製の金盥も現れますが、よく使われていたのはこのような木製の手水盥。足が長いことから、井戸端の低い所に常備して使っていたことがわかります。

●あさ
農家の朝は、現在の朝よりも早くはじまりました。とくに田植え、稲刈りなどの季節は、午前3時から4時ごろに起きて朝食をとり、田畑に出かけました。家族のなかでいちばんの早起きはお母さんです。ふだんでも午前5時ごろには起きて食事のしたくをしました。電気炊飯器やポットがなかった時代(今から50年以上前)は、ご飯を作るのにもとても時間がかかったからです。朝食は家によっても違いますが、朝の7時ごろ。まず、神棚や仏壇に炊きたてのご飯を供えてから家族が食事をとります。農業の忙しい季節、食事は1日5回食べますが、午前中は朝飯と朝コビルをとります。

●ひる
昼は農作業にはげみます。昼飯や昼コビルは、田や山で食べることも多かったようです。タジと呼ばれる田行きの弁当箱に入れて持参しました。栗東では、米作りの裏作として、麦や菜種を育てる二毛作がおこなわれていたので、田起こし、苗代作り、田植え、草取り、稲刈りの流れで続く米作りだけでなく、麦や菜種の栽培にも時間をついやしました。また、農業の合間に、山に燃料の柴を刈りに行ったり、行商に出かけたり、はたおりをしたりと、いろいろな仕事をしていました。猛暑きびしい夏の昼下がりは、昼寝もしました。季節ごとに生活のリズムが少しずつ違ったのですね。

●ばん
栗東周辺に電灯がともったのは、今から80年ほど前の大正時代のこと。それまでは、ランプやあんどんの明かりが夜のやみを照らしていました。農家の人たちは、夜ごはんを食べてからも夜なべをして働きました。わらじや縄など、わら細工を作ったりします。明かるいうちは野良仕事に手をとられてできないので、夜の時間にランプの明かりのもとでおこなったのです。寝具にもいろいろな工夫がこらされていました。寒い冬には、湯たんぽやあんかなどをふとんに入れて暖め、夏には蚊をよせつけないための蚊帳を吊って、その中で寝ました。風呂は五右衛門風呂をたいて入っていました。

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