栗東よもやま話(10)
安養寺村絵図を歩く   栗東市安養寺

 上の絵図は、江戸時代の安養寺村を描いた絵図です。

 絵図でまず目を引くのは、画面ほぼ中央に描かれる寺院の伽藍でしょう。絵図にはここに「東方山」と注記されており、東方山安養寺であることが分かります。安養寺村の村名の由来にもなっている、東方山安養寺の歴史は古く、天平12年(740)に良弁によって開かれたとも伝えられています。

 東方山安養寺はまた、長享元年(1487)、将軍足利義尚(よしひさ)の六角高頼(ろっかくたかより)討伐に際して、将軍の陣所となったことでも知られます。この事件は、近江国内の庄園を無理やり自分のものにしていた高頼を、将軍が自ら兵を率いて討伐にきたものです。陣所は一月足らずで鈎(まがり)の地へ移りますが、数千の軍勢が滞陣したことで、安養寺の境内は荒廃しました。さらに、後に織田信長の兵火にかかったことで、東方山安養寺は多くの建物を失ってしまいました。
 その後、寺が復興されたのは貞享2年(1685)のことです。絵図の東方山安養寺には、立派な門やお堂が描かれていることから、この復興後に描かれたものだと分かります。

 さて、視点を移してみると、絵図の中央下方に、「椿山」と注記された小山状のものが描かれているのが見えます。実は安養寺は、多くの古墳が営まれたことでも知られていて、絵図の「椿山」は椿山古墳という5世紀中ごろに築造された前方後円墳で、その形状が絵図にもよく表現されています。
 椿山古墳は、未調査の古墳ですが、短甲・鉄剣・鉄鏃などの武具が出土しています。また、安養寺地区の古墳のなかで、現在でもその姿がはっきり確認できる唯一の古墳で、市役所駐車場のすぐ南側に、その墳丘を確認することができます。椿山古墳のほかにも、絵図にはいくつかの古墳が描かれています。短甲や鏡の出土した大塚越古墳、大型の埴輪や木製の祭具が出土した狐塚古墳群などが、それぞれ「丸山」「狐つか」などとして表現されています。

 市役所にお越しになることがあれば、絵図に描かれた安養寺地区のお寺や古墳を探してみてはいかがでしょうか。

(「りっとう再発見」23 『広報りっとう』813号(2007年2月号)掲載)



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