特別陳列
六角氏と永源寺

2005年8月27日(土)〜10月2日(日)

 寂室元光像(永源寺蔵)


 六角氏は、近江源氏の一族佐々木氏の惣領家にあたり、幾多の盛衰を繰り返しながらも、織田信長の近江侵攻に至るまで、近江中世史の立役者でありつづけました。六角氏頼(1326〜70)は、室町時代初頭に活躍した六角氏の当主で、「当時於武家聊敬仏神知道理者也」(『後愚昧記』応安3年6月7日条)と評されるとおり、慈恩寺を建立し、また寂室元光を招聘して永源寺を開創するなど、六角氏歴代の中でも特に信仰に篤かったことで知られます。
 東近江市永源寺町に位置する永源寺は、六角氏頼の帰依をうけた寂室元光によって開かれました。寂室元光は、鎌倉の約翁徳倹らに学び、元応2年(1320)には大陸に渡って中峰明本、元叟行端、古林清茂、清拙正澄らに学びますが、とりわけ中峰の、終生官寺への栄転を固辞し、幻住と称して各地を遍歴し、在野を貫いた生きかたは、寂室に大きな影響を与えました。帰国後、度重なる官寺への誘いを断り各地を遍歴していた寂室は、71歳になる延文5年(1360)、桑実寺において六角氏頼と出会います。氏頼は寂室に山水眉目な奥島(近江八幡市島町)と雷渓(東近江市永源寺高野町)を献じ、寂室は雷渓に永源寺を開いて、以後亡くなるまで永源寺にとどまりました。永源寺の名は、氏頼の法号崇永から「永」の字を、近江源氏である六角氏の「源」から名づけたものとも伝えます。官寺への出世を拒み続けた寂室が、永源寺にとどまったことは、二人の交流の深さを物語るといえるでしょう。
 中世における永源寺は、六角氏の庇護のもと、寂室の高弟弥天永釈、松嶺道秀、霊仲禅英、越渓秀格らを中心に発展をとげます。しかしやがて室町幕府による六角氏征伐や、小倉右近大夫による伽藍の放火などにあい、また外護者であった六角氏も織田信長の近江侵攻によって滅亡するなど、やがて中世末には衰退を余儀なくされてゆきます。永源寺の再興が本格化し、近世の体制へと移り変わってゆくのは、江戸時代に入り一絲文守が入寺してからのことです。
 本展では、当館に寄託される重要文化財永源寺文書から、六角氏頼と寂室元光の交流に始まる中世の永源寺のありさまを、六角氏との関わりを中心に紹介いたします。

【展示構成】  →出品リストはこちらをご覧ください。
 1.林下の人 寂室元光
 2.六角氏頼との出会いと永源寺の創建
 3.寂室の遺徳を慕う人々
 4.六角氏の支援と永源寺の発展
 5.戦乱の世と永源寺
 6.六角氏亡き後の永源寺
 コラム.世継観音と六角満高


【参考資料】
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