栗東よもやま話(2)
上砥山日吉神社の「八紘一宇」   栗東市上砥山


 日吉神社(上砥山)に向かう参道に、しめ縄を渡した石柱があります。向って右側の石柱には「八紘」左側には「一宇」と刻まれています。裏に回ってみると「紀元弐千六百壱年 奉納」「官幣大社日吉神社宮司従六位寺井種長謹書」とも刻まれています。

 日本は約60年前、軍事力をもってアジア諸国に進出していった歴史を持っています。他国に軍隊を進める際、日本の主導部はその正当性を神話に求めました。日吉神社の石柱に刻まれている「八紘」と「一宇」は二つ合わせて「八紘一宇」という一つの熟語になります。神話のなかで初代の天皇とされる神武天皇が大和国橿原に都を定めた際、「八紘を掩ひて宇と為さん」と発した言葉に基づいて作られた造語です。戦時中は、「神の国でありアジア地域の先進国である日本がアジア諸国を率いる」という意味で盛んに使われ、日本がアジア諸国へ進出する根拠とされました。

 石柱の裏側に刻まれた「紀元」という年号もまた、神話に基づくものです。神武天皇が即位した年を1年とする年号で、戦時中の昭和15年がちょうど2600年目にあたるとされました。この年には国家を挙げてさまざまな記念行事が行われ、滋賀県では多くの県民の資金と労働を動員して、近江神宮が創建されました。もちろん日吉神社をはじめ栗東の村でも記念行事が行われました。こうした時代の流れのなかで、国民もアジア諸国への進出を正当と考え、戦費の献金や梵鐘などの金属を武器の材料として供出するなど、積極的に戦争遂行に協力するようになったのです。

 終戦後、「八紘一宇」の文字は日本を占領した連合国軍によって使用が禁止されました。日吉神社の「八紘一宇」もこうした流れのなかで文字部分にセメントが流し込まれました。現在、石柱は日吉神社の景観の中にとけこんでいますが、立ち止まってじっくり見ると日本が戦争の中にあった歴史を私たちに教えてくれます。

※官幣大社…明治以降制度化され、終戦に伴って廃止された神社の格式で、宮内省から幣帛(供物)を奉献された神社。官幣大社日吉神社とは、大津市坂本にある日吉大社を指す。

(「りっとう再発見」29 『広報りっとう』823号(2007年8月号)掲載)

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