栗東よもやま話(6)
久邇宮御料林と麻柄野の開拓   栗東市荒張




名月照平野 (名月平野を照らし)
風凄零露濃 (風凄じく零露濃し)
百虫声満地 (百虫の声地に満ち)
何処着吟節 (何れの処にか吟節の着く)

 これは「浅柄野虫声」と題し、大正2年(1913)に鵜飼重周により金勝十二景の一つとして詠まれた漢詩です。秋の明るい月のもと、平原に風が渡り、草に夜露が滴り、たくさんの虫の声が地に満ちるなか、詩を吟じる風情がうたわれます。
 かつて浅柄野周辺は、樹齢100年に及ぶかという大木も交えた松林で、松茸狩りや虫の音の名所として知られていました。

 近江八景に代表されるように、中国の瀟湘八景(湖南省洞庭湖付近)をふまえた八景は、日本各地に選定されてきました。浅柄野は、金勝を代表する景勝として、金勝十二景のほか、大正13年(1924)の近江金勝十二景にも取り上げられています。

 江戸時代まで金勝山系の土地の多くは金勝寺に属しました。浅柄野周辺も、古くは八ケ野、八ケ山などと呼ばれ、岡、目川、坊袋、川辺、小柿、上鈎、下鈎(糠田井・蓮台寺)の8か村が許可を得て薪や芝草を採取する山林でした。

 明治維新後、寺社の土地は境内を除いて官林とされました。明治24年(1891)、荒張の官林の一部が皇宮附属地に編入され、同時に皇族の久邇宮家に80年を限って貸与されています(『明治天皇紀』)。これにより当地は久邇宮御料林と呼ばれるようになりましたが、地元の村々には引き続いて柴などの採取が許可され、親しまれていたのでした。

 しかしうっそうとした松林も、戦時中に軍需用材として伐採供出され、荒地となってしまいます。

 やがて戦争の激化による食料不足をうけ、食料増産のための開拓計画がもちあがります。戦後まもない昭和21年(1946)に開墾が着手され、翌22年には浅柄野開拓農業協同組合が設立。農地改革を経て土地は地元の手に渡り、昭和23年には正式に金勝村大字荒張字浅柄野として集落認可されています。

 今、かつての松林の面影はありませんが、開拓者たちの努力の積み重ねにより、付近は立派な農業集落となっています。


(「りっとう再発見」37 『広報りっとう』831号(2008年4月号)掲載)
  

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