栗東よもやま話(7)
善勝寺の千手観音立像   栗東市御園


 浄土宗寺院善勝寺(御園)の本尊千手観音立像は、平安時代11世紀初めごろの作で、中央の顔の左右にさらに顔をあらわすという、日本で数例しか知られない珍しい姿をしています。こういった姿は天台宗にゆかりをもつと考えられます。それにしてもなぜ、浄土宗のお寺に天台宗に関わる本尊がまつられているのでしょうか。

 栗東の金勝寺周辺は、奈良時代以来、奈良の仏教界と深いつながりを持ってきました。比叡山を中心とする天台宗が広まり始めるのは平安時代半ばのことです。11世紀半ばに編さんされた『本朝法華験記』には、金勝寺の二人の僧が、天台宗で重視される法華経を信仰して往生を遂げた話が載せられています。また12世紀半ばの1142年に造られた金胎寺(荒張)の本尊阿弥陀如来坐像には、浄土の教主である阿弥陀如来に結縁するため、像の内側に40人ほどが名を記しています。やがて比叡山で学んだ法然が浄宗の開祖となるように、もともと浄土の教えは、天台から派生していったものです。そして平安時代後期には栗東にも確実に天台浄土教が広まっていました。

 金勝地域の浄土宗寺院の中心となる阿弥陀寺(東坂)は、室町時代に隆堯(1369〜1449)によって開かれました。隆堯は念仏を広めるため多くの書物をあらわしましたが、その中で自らを「天台沙門(=天台の僧侶)」と記しています。天台と浄土の教えは、かつては今よりずっと連続的なものととらえられていたのです。

 ところが江戸時代になると、寺院は一つの宗派に属すよう定められ、歴史的に天台、浄土にまたがる性格を持つ寺々も、天台宗あるいは浄土宗へと分かれていきました。

 冒頭に紹介した善勝寺の本尊千手観音立像は、かつて善勝寺が天台色の濃い寺院だったころの歴史を今に伝えているのです。

(「りっとう再発見」27 『広報りっとう』821号(2007年6月号)掲載)


  

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